朝鮮移民の患者と朝鮮語による放歌を論ずる時に、脇の支えとして日本の演歌について少し調べた。著者の添田知道は、父親が実際に演歌師であり、明治・大正における演歌は身をもってよく知っており、父の友人が演歌のコレクションを持っていたという。
江戸時代には瓦版と読売という、ブロードシートを配る業者がいた。そこに書いてあるセリフに、リズムや節が加えられ、歌となった。これが「やんれ節」や「流れ歌」である。これが明治時代に入って、自由民権運動、日清戦争、日露戦争などのおりに、演歌が発生する。もともとは、自由民権運動期に教養人たちが演説をするなか、その「説」の部分が「歌」となり、「演説」から「演歌」になるとのこと。実際、この書物に収められている初期の演歌は、自由民権の中の演説である。ただ、演歌屋があらわれて路傍で歌をうたい、その歌詞が書いてある印刷物を一部いくらで売るようになる。この印刷物が演歌コレクションとなる。これは香具師と同じような路傍での商売であるという。実はこの香具師というのも難しい存在である。