必要があって、19世紀の医学における「膜」のメタファーを分析した書物を読む。文献は、Otis, Laura, Membranes: Metaphors of Invasion in Nineteenth-Century Literature, Science, and Politics (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1999).
現代でも生命を定義するときに、膜などで外界と区切られているという点が入ってくる。この「膜」という概念が取り上げられたのは19世紀である。医学史上の巨人の名前を出すと、ビシャが臓器ではなくて組織に生命機能の単位を見て、フィルヒョウが細胞に生理と病理の基本を見たことなどが、この「膜」が生命についての学問の基本概念になった過程のランドマークになる。コッホたちの、細胞としての病原体という考えもこの流れで考えることができる。これらは、生命の基本単位が、膜によって外界と自らを区切っていること、そして、この膜という仕掛けは、個体を外界から孤立させるのではなく、内と外の境界でインプットとアウトプットを規制して、ベルナールが「内的環境」と呼んだものを作ることができることを強調していた。あるいは、病原体は、個人と個人の「膜」の間に、望ましからぬ関係性を作り出すエージェントであった。(「催眠術と細菌学の全盛時代は一致している」というのは、目からうろこの指摘である。)個人と、個人でないものの区別はなにか、そして、個人が内に取り込んでよいもの、取り込むと有害なものはどのように区別されるか、という、思想・イデオロギー上の問題と、そのまま重なる形で、生物学の基本概念が探求されていた。
このテーマを、フィルヒョウ、コッホ、ワイヤー=ミッチェル(『黄色い壁紙』で悪名高いアメリカの医者)、ラモン・イ・カハルといった医者たちと、トマス・マン、コナン・ドイル、アルトゥール・シュニッツラーといった作家について分析したのが本書である。帝国主義全盛時代だから、帝国のイメージが入ってきて、ワイヤー=ミッチェルでは女性の話が入ってくる。今読むと、プレディクタブルな分析という気もするけれども、明晰に書いていて読みやすい。文学作品を書いた医者(ワイヤー=ミッチェルとラモン・イ・カハル)、医学を学び医者の経験がある作家(ドイルとシュニッツラー)を取り上げて、同じ人物が書いた科学論文と文学作品の間での共鳴を分析しているために、記述がソリッドな基礎を持っている。
いや、しかし、なんといっても面白かったのは、「ニューロン」を発見した脳神経学者のラモン・イ・カハル書いていた小説の話しである。ラモン・イ・カハルは短編をいくつか書いていて、この小説が、ぶっとんだ科学のパロディになっている。ある細菌学者が、奥さんが助手と不倫しているのではないかと疑って、研究室のソファに震度計を仕掛けて浮気を探るとか、不倫をふせぐために、女性が20年老け込む血清を作るとか、催眠術のパロディとか、それはそれは面白い。このブログの読者に出版社の方がもしいたら、スペイン語ができる人にこの短編小説集(まとめられて一冊になっているらしいです)を訳させて、有名な文学好きの脳科学者に序文かなにかをいただいて(笑)、ぜひ出版してくださいな。この、ノーベル医学賞を取った神経学者の書いたSF・パロディ小説は、そこそこ売れますよ、きっと。もちろんあてずっぽうですけど(笑)