19世紀の外科医は、なぜ当初は麻酔に反対したか

Snow, Stephanie J., Blessed Days of Anaesthesia: How Anaesthesia Changed the World (Oxford: Oxford University Press, 2008)

エーテルやクロロフォルムで麻酔に掛けられた人間は、麻酔下の人間をはじめてみる人々や医者たちにとっては、生命と死がまじった状態であった。そこでは、確実に、患者は死に「近づく」ように見えた。医者たちとしては、これは、昏睡、大量の血液損失、窒息、水におぼれたときなど、生命がかろうじて保たれている状態であった。患者をそのような状態に、<意図的に>持っていくことに対して、医者たちが大きな抵抗を示したのは、まず当たり前のことであった。

「外科医は、患者に助けられなければ成功しない」(1846)という言葉が示すように、医療において、患者と協力する行うものであるという発想があった。その協力者の一方が、無意識で動かない状態にすることは、未知の領域であった。それと同時に、完璧に受動的な患者の身体の上に医療を与えるという、一方的に能動的な外科医のアイデンティティへと変更しなければならなかった。

スノウらは、「手術の危険の大部分は、それが与える痛みにある」という議論を展開したが、この主張は、当時の医学理論にうまく当てはまらなかった。痛みは、人間にとって自然の現象であり、それは生命にとって何らかの役割を果たしているはずであると考えられていた。手術の時に患者が感じる痛みは、生命が危険にさらされているときに、生きさせる力を患者に与えるための刺激であるとすら考えられていた。

麻酔は、不思議な心の現象を作り出していた。患者たちは幻覚のような夢、水に引き込まれて「落ちていく」夢を見ていた。また、麻酔をかけられて、ただ失神するのではなく、さまざまな行動をすることは不安を呼び、医者たちが言った、そこで出るのは、その人のもともとの性格だから、道徳的な女性が麻酔下で不道徳な行動をすることはないという考えは、かえって不安を倍加させた。

麻酔は、痛みを経験し、共有することについての、長期的な変動において、重要な核となった。1860年代には公開処刑が廃止され、イギリスでは動物実験反対運動が起きた。キリスト教も、かつての地獄の苦しみを強調したものから変化し、神の慈愛を象徴する宗教となった。