人間学的臨床医学

必要があって、臨床医学の人間学化を論じた古典的な著作を読む。文献は、Cassell, Eric J., The Nature of Suffering and the Goals of Medicine, 2nd edition (Oxford: Oxford University Press, 2004) 著者は優れた臨床の教授で、初版が1991年に出て、その改訂第二版である。

エッセイと学術論文の中間くらいの水準で、臨床医学者が自分の豊富な経験の中から自由に語る部分と、学術論文を読んだりして反省的に考えて分析したことが、半々くらいになっているスタイル。自分の経験や直感を織り込むと同時に、歴史や医療社会学やバイオエシックスなどの議論も使っている、臨床医学者が一番力を発揮することができる書き方である。この手の書き方を「学問的でない」といって頭から拒否する人文社会系の学者もいて、確かにその拒絶に共感したくなるような水準が低いものもあるが、このスタイルを拒む事で臨床医を締め出すようなことになると、最終的に損をするのは人文社会系のバイオエシックスの学者である。そういうときのバイオエシシストは、人間と河童が野球の対抗戦をすることになって、沼の中でやった野球だけが野球だといっている河童を想像するといいかもしれない・・・というのは、ちょっと違うか(笑) 

基本は、現代のアメリカの医療と、過ぎ去った医学の黄金時代と対比して、何が間違っているのか、何をすればいいのか考えながら、現実と自分たちを批判的に考察し、洞察をめぐらせるという、「傷ついたアメリカのエリート医たちが魂を求める旅」というトーンがある。そして、この書物を読むと、彼の世代のアメリカの臨床医にとって、何が一番ダメージだったのかということが痛々しいほど分かる。それは<患者の信頼を失ったこと>であった。彼の友人の医者が、患者に新しい治療法を示唆したときに、「先生は私を実験台にするんですか」と言われて、ショックを受けて彼に電話してきた。当時NYで仕事をしていた彼は、地方の医学センターで勤務している友人に、「NYではそんな患者ばかりだよ」といわなければならなかったというエピソードが紹介されていた。

日本の医者は、いまのところ、厚生省にいじめられていること、医者の勤務の実態が過酷であること、モンスター・ペイシャントがいること、毎日新聞をはじめとするマスコミが過度に批判的なこと、ということが問題であると思っているのだろう。幸いにして私が個人的に知っているお医者さんたちは、みな尊敬するべき誇り高い精神の持ち主で、こういう泣き言をそのまま言う人はいないけれども、愚痴っぽい人たちからは、時々こういう話を聞く。 これらのいずれも正しい。しかし、日本の医学は、カッセルのような形での医学の自己反省をすることはないのだろうか。どういうところに行くと、医者による医療の現状の批判で、水準が高いものが読めるのだろう?