田中香涯の医界批判2

必要があって、田中香涯の医療批判をもう一つ読む。昨日の記事が、明治30年代の医界の批判であったのに対し、これは、昭和初期の医界の批判。文献は田中香涯「欠陥だらけの医術」(1)~(4)『医文学』7(1931), no.10, 1-9, no.11, 5-12, no.12, 5-12, 8(1932), no.1, 4-9. この『医文学』という雑誌は、たぶん田中が主筆をつとめていたいた雑誌で、田中が毎号にわたって何本かの論文を寄稿している。

田中がいう欠陥をいくつかまとめると、次のようになる。

1) 医学が進歩して病人が増えている
医学が進歩しているにもかかわらず、病人は増えている、と田中は言う。そして、非医師が、いたるところで横行跋扈し、愚劣とも滑稽ともつなかい治療法を行っている。これは、単に国民の文明の程度が低いのではない。むしろ、知識を持ち、お金もあるブルジョワジーが、贅沢な養生や手数のかかる技巧的療法のために、かえって抵抗力を失って病気になっているのである。一方で、無知貧困のプロレタリアの中には健康なものも多い。
2) 医育が間違っている
一般社会が要求するのは学医ではなくよく病人を治療する良医であるのに、昨今の大学は、学問のための学問をする医者を大量に作っている。モルモットや家ウサギに実験したり、珍しい病気を研究したりするものを尊び、そうでないものを見下している。こうした医者は、病気をみて、患者を見ない。 非医者が横行するのも、必ずしも患者が無知低級なばかりではない。学医たちが、患者の個性を顧みずに、画一的な治療をするからである。 
3) 治療の個性化の必要
稲田龍吉の「治療の個性化」と別所彰善の「個性療法」への共感を示す。個人の慢性病には、治療の個性化が必要である。疾病に対する恐怖心や悲嘆の念を去らしめることが必要である。糖尿病患者が自分で尿を調べ、結核患者が検温したりして、その数値の上昇に一喜一憂するのは恐怖心や不安をあおるだけである。通俗医学書や雑誌に掲載される医学博士たちの記事は、恐怖心を助長するだけで、百害あって一利ない。
4) 慢性病患者に対する医者の無理解
慢性病患者をみれば、転地療法をさせて、安静と滋養ばかり説くのは間違っている。神経衰弱やヒステリーにも、型にはまった安静と滋養ばかりで、希望も趣味も娯楽もない生活を強いている。

その他にも、専門分化の弊害なども論じているけれども、長くなるから略します。

田中が紹介しているエピソードで、一目で診断できるのを自慢にしている精神病学の教授がいた。患者から病状の訴えや病気の経過などを聞かなくても、態度や挙動などで、一発で診断できることを自慢にし、それをよくやっていた。あるとき、件の先生のクリニックに、間違えて坐骨神経痛の患者がまぎれこんだときに、先生が、いつものごとく、患者を一目見ただけで「早発性痴呆」であると診断して、大恥をかいたという。 

・・・で、このオスラー気どりの先生は、どなたなのか、だれか、ご存じありませんか?(笑)