1950年代性病予防の臨床試験

必要があって、戦後のペニシリン産業の進展を記した書物を読む。文献は、武田敬一(著)・武田晴人(監修)『ペニシリン産業事始』(東京:丸善プラネット株式会社、2007)重要な史実が詰め込まれている必読の文献だと思うが、ここでは、性病のところ、特に業態婦に対する臨床試験が行われていた部分だけメモする。

昭和19年から軍の指導で始められたペニシリンの生産は、戦後にGHQの指導と優遇のもとで急成長した。この背後にはGHQが持っていた性病への恐怖と、日本政府が持っていた民族純血が汚される恐怖が一致したという事情があった。日本政府は、昭和20年の8月18日にはすでに内務省が占領軍用の慰安施設を特設することを計画し、東京・横浜の「業者」と連絡し、政府が5,000万出すから業者側も5,000万出すように求める。この時に若き大蔵官僚として活躍した池田勇人は、「一億円で純潔が守れるなら安いものであった」とのちに語るが、この言葉が象徴しているように、売春婦を防波堤にして一般女性の純潔を守ろうというのが狙いであった。娼妓からの募集がうまくいかず、東京には「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の参加協力を求む」というあいまいな表現の広告を出し、8月27日には1,360名が特殊慰安婦施設に登録された。彼女たちをあつめて結団式が行われ、そこでは「”昭和のお吉”幾千人が人柱のもとに、狂瀾を阻む防波堤を築き民族の純潔を百年の彼方に護持培養する」と宣誓されていた。すぐに全国で50箇所の施設ができた。GHQの側も、将校、白人兵士、黒人兵士と、区別した施設を作るような指導もした。とりあえず、純潔を守る体制はできあがったわけである。(この過程は、ダワー『敗北を抱きしめて』により詳しく書いてあるとのこと。)

次は性病の治療と予防の問題である。GHQは、日本の業態婦の性病は日本産のペニシリンでという方針を伝え、日本のペニシリン産業を指導・優遇した。昭和21年の5月にGHQの承認を受けた最初のペニシリンは、ほとんどが業態婦向けに使われた。その後、日本のペニシリン産業は急成長し、昭和24年には月産1,000億単位、翌年には6,000億単位に伸びた。(って、この数字がどういうことかわかりませんが 涙)それとともに、業態婦に対するペニシリンの内服などによって予防効果があるかどうかの実験が始まる。

最初の実験の打ち合わせは昭和25年の3月に横浜で行われ、ペニシリン学術協議会や横浜市・神奈川県の関係者、製薬会社などが参加した。その実験は、屏風ヶ浦の病院と四つの診療所で、業態婦を三群にわけてペニシリンを内服させ、一日一回10万単位、20万単位、それから対照群として、その効果を確かめるものであった。毎日健康診断を行い、東大物療内科の鳥居助教授に実験結果の統計的な分析を行わせるもので、規模は合計50名であった。かなり本格的なものであった。同じような実験は大阪でも実施された。3か月ほど続いた横浜の実験では、45日間で業態婦ひとりにつき100回前後の接客があった。横浜の実験では対照群との違いはあまり出なかったが、その後、20万単位以上の内服や、注射、膣座薬などは、ある程度の効果が出るとの意見に固まった。委員会では、男性の努力による予防がなおざりにされている意見も出され、耐性を心配する声も上がったが、そうじて、業態婦を実験台にしたペニシリンの予防効果は、ポジティヴな結論を出した。

これは実際はかなり高度な議論を含んだもので、私がざっと分かった程度のまとめになっている。(医学史研究の一番の基礎の<テニクカル・グラスプ>がない状態です 涙)ただ、おおまかなポイントとしては、ある社会の中でポピュレーションのどのような部分に、病気と先端医学がまず到達するかという問題だと考えることができる。これは、David Arnold が「近代化の前進線」として言及した概念と重なる部分がある。