必要があって、「心臓と言う書物」という中世の主題が近現代にどのような影響を持ったかに触れた章を読みなおす。文献は、Jager, Eric, The Book of the Heart (Chicago: University of Chicago Press, 2000).もともとは中世の思想・文化研究の名著である。
個人の心は、その個人にユニークな何かであり、それは秘されているが、「読む」ことができるテキストであるという考えが中世に成立した。他人と自分の心と人格を書物になぞらえることができるものとして理解し、そしてあたかも書物を読むかのように人に対してふるまい、自分もその心においては一冊の書物であるかのようにふるまう一連の仕掛けが成立する。この書物は、中世におけるそういったモデルを論じた書物だが、最後の章で、そのモデルの名残りが、近代から現代につながっており、しかも重要な変容を遂げているという。変容の部分は、ITや映画などの面白い主題にも触れて、ディコンストラクションなども少し論じているが、今回読んだのは、そちらではなくて連続していることを論じた部分である。
19世紀には人格が宿る臓器は脳になっていた。それとともに、パリンプセストになぞらえて人格を理解することも行われるようになった。パリンプセストは、記憶の層を持っていて、それらが重ねて書かれていくが、一度書かれたものは消えることはない。もとは羊皮紙の写本という、19世紀からみると過去に作られた事物だが、実験室での操作を経て読めるようになることもあって、メタファーとしては、複雑で、意味を秘めている、新時代の人間の心をさすのに使われた。
E.B. ブラウニングは、『オーロラ・リー』 (1857)で、ロックの白紙説(タブラ・ラサ)ではなく、預言者が手で書いた原基の署名が、汚され、消されていくものとして人間の心を理解した。原基の署名とは神と霊魂の世界に属し、それを上書きしていくものは身体と感覚の行いである。ド・クインシーも、『深き淵よりの嘆息』で、人間の脳とは、生来の素晴らしいパリンプセストでなくてなんだろう―私の脳もそうだし、読者よ、あなたの脳もそうである」「観念、像、感情の層が、脳に、光のようにやわらかく落ちてきては、積み重なって行き、それが永遠に続く」というイメージで人格を語っている。もちろん、この「積み重なる人格」という思想の中で「幼少時期のトラウマ」も深い意味を持ってくる。