比叡山の若い僧で、夕暮れに急いで山を出て急いで帰ってくるのを常にしているものがいた。言いつけどおりにするまじめな僧であったが、さぞかし遊里を訪れてあわてて帰ってくるのだろうと思っていた。帰ったときに涙を流したりしていたが、それは女のことを思っているのだろうと思われていた。しかし、ある夕方、山を降りるこの僧のあとをつけさせたところ、蓮台野の墓地にいって「いひしらずいまいましく爛れたる死人のそばにいて」、目を閉じたり開いたりして、声をたてて泣いていた。これが「不浄観」であり、死体などの穢れたものを見て無常観を得る修行のひとつであった。
21は慶政が自身で経験したことである。ある女が、女主人の夫と忍ぶ恋をした。女主人はそれをねたんで、口に出せないようなひどいことを女にして、殺して死体を捨ててしまった。そこにいってみたところ、すでに死体は人の姿をしておらず、大きな木の破片のようで、足も手もなかった。汚くけがらわしいことは、何かにたとえられるようなものではなかった。そのけがれは、たとえ大海の水をかたむけて洗ったとしても清められるようなものではなく、その匂いは、エジプト中の香油をそそいでも消せるようなものではなかった。このような姿になってしまったら、だれが同衾し、枕を並べることがあろうか。身分が高いものでも低いものでも、その膚が肉をつつみ、筋を骨にまとっているのは変わらない。そして、このようないとわしいけがれが、肉体の本質なのである。
これは中世の身体の授業をするときに挿入しよう。