男性と女性の優劣について―『アラビアン・ナイト』より
「男女の優劣について、ある男が女の学者と議論した話」と題されたお話。私が持っているちくま文庫のバートン版だと、6巻の143頁以下、419夜から423夜までにあたる。
「男女の優劣について、ある男が女の学者と議論した話」と題されたお話。私が持っているちくま文庫のバートン版だと、6巻の143頁以下、419夜から423夜までにあたる。
男性の長老と、女性の学者が、男女の優劣を議論するという設定のうえで、話は、男性が選ぶ性行為の対象として、若い男性と若い女性のどちらが望ましいかということが焦点になり、男の長老が男性同性愛者の意見を、女の学者が男性異性愛者の意見を述べるという枠組みで議論が進行する。
男性の長老は、コーランなどの「伝統」も、「論理」と訳されている自然哲学も、男性の方が女性よりも優れていると主張したのち、話は、性愛の対象として若い男が優れているということに集中する。若い男性との性交がうるわしいものであることを証明する詩句も引用される。
腰はさながら若人か、
交会中にゆれ動く、
そのありさまは、そよ風に、
揺れる柳の枝に似る。
交会中にゆれ動く、
そのありさまは、そよ風に、
揺れる柳の枝に似る。
それに対し、女学者は、若い女性こそが男性の性の対象として優れていることを力説する。この議論は、男の長老の議論と異なり、乙女の魅力をうたうだけでなく、男性の同性愛に対する批判も含んでいる。まず、「日頃男色をやっているものや、陰間や信仰に背いているものは、アラーに批判されている」という、道義的な批判を述べる。そして興味深いのは、肛門性交に対する露骨な嫌悪感を表明した部分である。
稚児のお尻を楽しみて
一夜をあかし、けがれたる
汚わいの中に目覚む人
いかに多きぞ。その衣
黄色くなりし紅藍に
けがされたれば、ありありと
汚辱を語り、狼狽の
色よくかくす能わず。
かくも不潔にけがるれば、
日中衣に糞のしみ
みとがめられても、せんもなし
一夜をあかし、けがれたる
汚わいの中に目覚む人
いかに多きぞ。その衣
黄色くなりし紅藍に
けがされたれば、ありありと
汚辱を語り、狼狽の
色よくかくす能わず。
かくも不潔にけがるれば、
日中衣に糞のしみ
みとがめられても、せんもなし
この、糞がつき、その色で衣服にシミができるような男色と、薫り高い乙女が対比されるという議論になっている。少し深読みすると、肛門性交なしの股間性交であったギリシア流の同性愛行為ならばOKであるという道筋に追い込むように設計されている議論にも見える。実際、19世紀後半にウィーンのクラフト=エビングが調査した多くの男性同性愛者は、肛門性交に強烈な違和感を表明していた。