1961年、新潮社刊『恋人たちの森』に収録、1982年刊行の著作集52-94を参照。
男性同士の同性愛を含めた多彩な性と愛情の関係を綴った作品。フランス文学を研究する大学助教授の「ギドウ」と、その若い男性の愛人の「パウロ」の二人が主人公。年齢はギドウは30代で、パウロはじきに18歳になる青年である。その他に、ギドウのもう一人の愛人である40代末の人妻の女性の植田夫人と、パウロの恋人の20歳の梨枝が主要な登場人物である。この4人の「四角関係」のもつれから、ギドウが植田夫人に殺されて終わる物語である。
森鴎外の娘の一人が作家であることは漠然と知っていたが、作品を読むのは初めて。辞典には「彫心鏤骨」の文章という表現があり、鮮烈な具体的なイメージの描写に、歯に衣着せない皮肉が込められているのが印象深かった。たとえば、パウロを知るようになって、それまで付き合っていた年上の植田夫人の肉体に嫌悪感を催すようになったギドウの心持を描写した部分が凄みがある。[文末引用]
この作品を読むようになった原因は、精神医学と文学という主題で、精神疾患の一つのであった同性愛を作品として取り上げているものだからである。しかし、この作品を読んだ印象でいうと、精神医学のまなざしであるとか、病理化であるとか、そういうったものはひとかけらもない(笑)刹那の感覚のきらめきと、恋とも愛とも肉欲ともわからぬ感情の交錯の中へと人生が吸い込まれていく登場人物たちの描写である。この作品が「BL小説の出発点」と呼ばれているのも、想像がつく(実は「BL小説」というのは、一つも読んだことがないのですが 笑)
ギドウは、別れてきたばかりの植田夫人の、肥満した醜い体の妄執が、頭に重くのしかかっているのを、感じていた。俯伏せになると、寝台の上に針を持って圧しつけられ、熱のあるように熱くなった二つの乳房、紅紫のラズベリイのようだった乳頭と乳暈、鳩尾から腹にかけての○やかな丘は[○は、手ヘンに堯] 、子供を生まない為に弛みがなく、その上に濃い影をつけて重なる下肢の重みの下に、ギドウとの、もう二年余りになる秘密を隠していた弾力のある下腹。それらは最近になって急激に太り出し、線が崩れて来ていたのだが、パウロを知るに及んで全く魅力を失ったものに、なった。そんな肢体が、倦怠の潜んだギドウの眼の下でうねる、すでに飽きはてた燈の下の場面が、18に二か月足りないパウロの、青くて若い木のような、爽やかな体の後に、次第に腐敗した果実の匂ひを漂わせはじめてからもう4か月になる。腐敗の匂いのする果実の皮膚の裏側には、絶えず燃え上がろうとしている猜疑と嫉妬の狂乱がある。
もりまり
[1903―1987]
小説家、随筆家。森鴎外(おうがい)の長女。東京生まれ。旧制仏英和高等女学校卒業。1933年(昭和8)ごろより与謝野寛(よさのひろし)夫妻主宰の『冬柏(とうはく)』などに随筆、演劇時評を書く。鴎外の思い出をつづった処女随筆集『父の帽子』(1957)で日本エッセイスト・クラブ賞を受ける。『靴の音』(1958)、『贅沢(ぜいたく)貧乏』(1963)などを続刊。また小説『恋人たちの森』(1961)、『甘い蜜(みつ)の部屋』(1965〜75)など、彫心鏤骨(るこつ)の文章による華麗な幻想的世界を繰り広げた。
[田中美代子]