戦争に医科学者がどう貢献できるか

川畑愛義「国策上より見たる衛生施設と健康教育」『医海時報』no.2269(1938), 2.19, 350-351. 

戦前期に、久野寧という名古屋(帝国)大学の生理学教授が、日本人の気候馴化の実験を行っていた。気候馴化というのは、気候が違った土地にいって、最初は体調がすぐれなくなるが、次第にそれに慣れるという現象である。これは、戦前の日本のように、大東亜共栄圏の各地に移民を大量に送り込んでいた国にとっては重要な問題であり、気候馴化の研究は国策の一部であり、その研究を実施したのが、ノーベル賞候補に二回なった優れた科学者の久野であった。久野は、大東亜共栄圏という気候が大きく違う土地のどこに移住しても日本人は適応する能力を備えている、それどころか、欧米人よりも適応能力が高いということを言い立てた。簡単にいうと、国策に合致する生理学研究を行ったということになるが、この議論は、複雑な問題を含んでいた。たとえば、当時の人類学では、化石や人骨や体格という「構造」に基づいていた日本民族論が唱えられていたが、それに対して生理上の「機能」に基づいた日本民族論を説いたことがその一つである。移民、特に南方への移民の生活がかんばしくなかったが、これは気候馴化の反証ではないのか、だとしたらどうしたらいいのかという問題もあった。これらの問題について、いま、論文を準備している。

久野の研究のある段階から研究の方向性を決めたといってもよい重要な役割を果たした研究者がいて、川畑愛義という京大卒でのちに海軍の軍医となった人物である。この人物について調べているが、やはり、重要な特徴を持っていた。彼は、愛国的な科学者である。一言でいうと、愛国心が強く、この戦争に医者としてというよりも科学者としてどのように貢献するかということを真剣に考えていたということが浮き彫りになった。

「今や皇軍の威武は堂々として全支を圧しあまねく全世界をしんがいせしめつつある。その勢威正に天下無敵と云ふべく天下又うたがひをさしはさむものがない。」(ひらがな表記はママ)で始まるこの文章は、川畑が医学者として国威にどのように貢献することを考えていたことを示す。

「国難来と云へば如何なる田夫野人といえども欣然身命をささげて出陣するのに、一方文化戦線においてはよく一代の碩学といえどもかくのごとく一命を賭しての研究の絶叫がきわめて稀有に止まることけだし否みがたい事実である。思うに武においてのみ猛きことはいまだ一国の全的光栄ではありえない。ペンをもつものはそのペンに、鍬をとるものはそのくわに、試験管をふるものはその試験管に全力を傾倒するこそまことにそれぞれの滅私奉公の所以ではなかろうか。(中略)銃をとれば向かうところ敵なき大和民族がペンをとって、鍬をにぎって、そして試験管を振ってなぜ外人に負けていなければならない筈があるか。」

欧米の諸国は、辺境に医学の恵みを与えることは惜しまなかった。日本も新たな東洋の盟主としてそのごとくしなければならない。「殊に文化の低い民族に医療ほど喜ばれるものはない。吾人は我国医人が帝国軍人のごとく勇敢に挺身して、支那のすみずみまでも雄飛し、以て我が国医学の恩恵を惜しみなくあたえるこそ、我が医人の帝国にささげる一方の報国であることを確信して疑わない。」

川畑は日本の「国語」が難しすぎるという批判する。漢字は煩雑であり、「かな」は「非科学的で不合理性を少しの改良を試みることもなく」使われている。これを簡単にすれば、小学校で国語の時間を一時間減らし、それにかわって「衛生」の時間を設ければよいという。

いずれにせよ、ここには、「いまや日本帝国はあらゆる方面に於いて革命のれい明期に立つ」という、「新しい時代」の興奮があった。この問題も、論文の中に組み込もう。