『帝国日本と人類学者』

必要があって、日本の人類学の歴史を論じたスタンダードな書物を読む。文献は、坂野徹『帝国日本と人類学者 1884-1952』(東京:勁草書房、2005)

すぐれた書物で、日本人類学が成立するときのオリエンタリズムの問題、日本内部の他者(アイヌ)と日本人の起源論、帝国の植民地の原住民の問題(台湾、朝鮮、ミクロネシア)など、近代日本の人類学の問題を国民国家と帝国建設の枠組みの中で語っている。記述も豊富で平明で正確であって、近年の日本科学史研究の大きな成果である。断片のメモふうに。

人類学者が植民地支配を支えたかどうかが問題ではなく、人類学自体が使っている概念(文明、未開、民族、人種)自体が植民地主義の産物である。

人類学は他者研究であると同時に自己研究でもある。

坪井正五郎:サイードのいう西欧のオリエンタリズムにさらされた非西欧社会の人間の苛立ちを見ることはそう難しいことではない。日本における人類学研究は自らが観察主体になろうとする際に、まずは「われわれ」に対する西洋のまなざしを意識せざるをえない運命にあった。ベルツが日本人の体格測定の論文を発表したと知った東大の小金井良精は「ベルツに手をつけられた」と叫んだという。日本人という素材は、西洋のアカデミズムの中で肩を並べる研究をするのに格好なテーマであり、西洋の血に対する劣等意識を乗り越えることができる。ちなみに足立文太郎も『日本人体質の研究』で、欧米人のうぬぼれをくつがえし、彼らも劣等な徴候を持っていることを知らしめるのは痛快である、と書いている。劣等人種という自己規定を迫る人類学に対して、その知の担い手の一人たらんとした彼の引き裂かれた自意識であった。

柳田のエスノグラフィ「白人が自分たちとはまるでちがった種族の中にはいって、何ものかのサトリを得ようとする学問」

鳥居龍造の固有日本人説:先住民族に対する人種交替パラダイムと混血によって民族の統一性を確保する。これは日本人の主要部分と呼ばれ、日本人の結合の中心であり、他の民族と混血によって内に取り込みながら成長する。長谷部言人は日本人の混血を否定し、

混血をむやみに強調することは日本人のアイデンティティを切り崩すが、しかし、混血も全面否定することは、少なくとも一般に流通するためには問題をかかえていた。混血は結果的に南方進出に有利な特徴をつくりだした。

1940年代の前半には、人種的類縁性をもとに日本人の植民地統治の正当化を主張するロマン主義的な植民地論では対応できない事態があらわれていた。混血もそのひとつであり、移住した日本人が原住民化することもそうであった。この問題を解決するためには、それは、少数の日本人で現地住民を統治する仕組みと作り上げることであり、そのために日本人の熱帯適応性を選抜するための指標を開発することであった。