多田鉄之助『蕎麦漫筆』

今日は無駄話。

私は蕎麦が好きな人間だと思う。といっても、総じて趣味や道楽がない人間だから、有名店を食べ歩くとか、食べただけで産地がわかるとか、特別なこだわりがあるとか、そういった「通人」らしさとは無縁である。日頃は学者をしていて、普通の人が知らないことばかり調べ、細かいことばかり考えているせいで、学問をしなくていい時には、できるだけおおまかに生きたいという願いがあるから、「蕎麦が好き」というおおざっぱさを守って、更科とか藪とか二八とかいう細かいスカラリーな議論から距離を取ろうとしているのだと思う。

その一方で、いろいろな知識があると、その食べ物を食べるのが楽しいことも知っている。だいたい、私が蕎麦が好きな最大の理由は、子供の時に漱石の『猫』で読んだ、迷亭君が蕎麦を食べる場面が好きだからである。『東海道中膝栗毛』の三島か原のあたりで弥二北が蕎麦を食べる場面も好きだった。「いまくいし そばは富士ほど山盛りに 少し心も浮き島が原」という狂歌も覚えている。イタリア料理を好きになったのも、イギリスの料理評論家のエリザベス・デイヴィッドの本を読んだことが大きいし、オムレツが好きなのも、ガートルード・スタインの文章のせいである。

そういうわけで、多田鉄之助『蕎麦漫筆』がどこかで絶賛されていたので、わざわざ古本で買って読んでみた。これは、じっさい、素晴らしい随筆である。特に、「蕎麦尽くし」の祝い唄というのが素晴らしかった。いろいろなそばの種類を織り込んでつくられた祝い唄である。蕎麦が好きな人は、ぜひ読むのがいいと思う。いまはアマゾンの古本では品切れだけど、それは私が買ったせいである(笑)