ライデンの臨床講義

Lindeboom, G.A., Herman Boerhaave: The Man and His Work, 2nd edition (Rotterdam: Erasmus Publishing, 2007).
1530年代から40年代にかけてのパドヴァ大学は、医学教育・医学研究が革新的な変化を遂げて、パドヴァの卒業生によってヨーロッパの他の大学にもたらされた。この革新は、解剖学の常設化、植物園の建設、病院を用いた臨床講義という三つの特徴を持ち、単に新しい知識が得られたというより、知識が求められ伝達される新しい構造が作られたというべきである。知的には人文主義の強い影響のもと、実務的にはヴェネツィアの強力な支配のもとにこれらの医学教育の構造が作られた。

ライデンにも、このパドヴァの波が押し寄せた。解剖学の常設化、植物園の建設は比較的スムーズに進んだが、臨床講義は成功するまで時間がかかった。そのはじまりは、1567-71年にパドヴァ大学で学んで学位を取り、1581年に教授となった(?) van Heurinus が、1591年に臨床講義の実施を提案した。この提案は、基本的に無視され、臨床講義が実現したのは、1636年に、ユトレヒト大学が新設されてライデン大に脅威を与えたときであった。元修道院であった聖カエキリア病院と契約を結び、二つの病棟を大学の臨床講義用に用いることができるようになった。男性棟と女性棟、それぞれ6人ずつというから、ささやかなものである。

この臨床講義は17世紀に継続され、熱心に行った教授もいたが、そうでなかった教授もいた。しかし、1714年に臨床講義を始めたヘルマン・ブールハーヴェは、圧倒的な人気を博した。週に二回、水曜日と土曜日に行われる臨床講義は、数多くの学生が群れつどうものだった。(正確な数がほしいところだけれども・・・)18世紀のヨーロッパの偉大な医学校の教授たちは、ハラー、ファン・スウィーテン、リンネ、モンローなど、数多くがブールハーヴェの臨床講義に出席した。彼らは、ブールハーヴェが患者を指し示しながら行う説明を聞き、それを記録し、のちにその臨床講義は出版された。

この臨床講義はその場で学生によって筆記され、その手稿も残っているし、van Swieten による速記ノートは読み解かれて出版された(私は読んでいないけれども)。Boerhaave’s Medical Correspondence (1745) には、1737年9月の患者についての2か月ほどの臨床講義が採録されている。「紳士諸君、この66歳の患者をご覧ください」で始まる臨床講義である。とても面白い資料であるし、これはネット上で見ることができる。面白い点を一つだけ。患者はもちろん貧しい患者であり、慈善病院の患者であるから、ブールハーヴェや彼の学生が目指していた私的診療とは異なる予算で行わなければならない。私的患者を念頭におきながら、貧困患者むけの治療も教えるのである。(あるいはその逆)だから、「食餌は、本来ならビスケットと新鮮な肉を味付けしてローストしたものだが、この患者であれば実がある穀物でいい。もし豊かな患者ならギリシアのワインにマルメロのマーマレードだが、この患者にはブランシュヴィク・マムというビールがよい」と言う形で教えられる。この二重性は、臨床講義について、非常に面白いヒントになるだろう。