『仙界異聞』

平田篤胤『仙界異聞・勝五郎再生記聞』子安宣邦校注(東京:岩波書店、2000)
平田篤胤に『仙境異聞』という作品があることを最近知った。文政3年(1820年)、浅草観音堂に前に少年寅吉なる人物が現れ、幼い頃山人(天狗)に連れ去られ、そのもとで生活・修行していたという噂が江戸に広がった。当時から異界に強い興味を持っていた平田篤胤はこの少年を奪い去るように連れてきて、彼のサークルの学者や知識人たちの熱心な探求と質問の対象にした。彼らが矢継ぎ早に繰り出す質問に寅吉が応えるさまは読んでいてもスリルがあり、ただの天狗小僧であった寅吉が、異界から来た一人の仙童になっていく契機があちこちに感じられる。

これをさっと眺めて、寅吉が描く天人の世界にぼうっと感心しているだけだから、大それたことは言えないけれども、この記録は、日本の精神医学が近世から近代に移行するときのありさまを語る一つの柱になることは間違いない。これまでの記述では、一方には座敷牢から精神病院へという流れがあり、もう一方には精神病についての理解の変化がある。前者は比較的シンプルな話であって、座敷牢の制度が20世紀半ばまで公式に存続したので、研究でかなりのことが分かっているという実感を持っている。しかし、後者の精神医学についての変化は、複雑であると私は思っている。診断体系の大変化をまたぐ歴史研究はやはり難しく、江戸時代の病気と明治以降の診断名とのつながりが見えてこないことが大きい。

現在のところ歴史学者が研究したのは「狐憑き」についての変化を用いたストーリーである。狐憑きを事例として精神医学の近代化を語る話は、すでに概略は分かっている。兵頭晶子が水準が高い研究を発表しているし、スーザン・バーンズの優れた研究も近刊である。狐憑きを使って精神医学の近代化を論じる試みは、もうしばらく取り組まなくていいと私は思う。別の疾病が必要である。

その疾病は何かというと、これが難しい。20世紀前半の精神病院を埋め尽くした二つの病気である早発性痴呆(精神分裂病統合失調症)と進行麻痺は、いったい江戸時代にはどこにいたのだろうか、不思議になる。「人格の崩壊」などの極端な表現が明治以降の医者たちによって使われ、あれほど人々を戦慄させた二つの病気は、江戸時代にも間違いなく存在した疾病なのに、人々は気がつかなかったのだろうか。このあたりにも複雑な問題があると思うけれども、私は今の所見通しを持っていない。

というわけで、精神医学の近代化の問いは研究設計が難しいのだけれども、大きな手掛かりが『仙境異聞』だと思う。寅吉は平田篤胤に捉えられてこの書物を残したが、かりに、明治以降の精神医学者に捉えられたらどのようになっただろうかと考えてみることができる。私は精神医学者ではないから診断はできないが、天狗の国で修業してきたと信じ、その生活を語り続けるわけだから、精神医学の範囲には絶対に入る。そして、このテキストと対置できるものが念頭にある。もとはといえばスイスで出版された書物だが、セオドール・フルールノワの『インドから火星へ』であり、それに影響された作品である。フルールノワの作品は、ソヌ・シャムダサニの解説をつけて再刊されており、<エレーヌ・スミス>を名乗る霊媒であり多重人格者が、火星やインドの風景や生活を、その世界の言語で語るという趣向の書物である。

近代化の先には霊媒が異世界に行った話、それを二重人格と考える精神医学があり、その前には『仙界異聞』があるという精神医学史を書くことができる。これをきちんとやれば、精神医学についてのもうひとつの近代化の線を調べることができる。