「ポスポル」という明治の「御しやすい火」

横山泰子『江戸東京の怪談文化の成立と変遷 : 一九世紀を中心に』(東京:風間書房, 1997

 

明治維新の文明開化期において、西欧の学問、特に科学に基づいて民衆宗教・迷信は錯誤であると唱えることが、文明の一つの「型」として確立した。慶應義塾の小幡篤次郎は明治元年に『天変地異』の中で、自然現象の法則を解説するのはまさしくその流れ。その中でリン(「ポスポル」)が重要な役割を果たしていたのでメモ。小幡は、人魂や不知火は「陰火」であり、自然法則に合致した現象であるという。通常の火は光と熱の双方があるが、世の中には光あっても熱くないものがある。不知火や人魂が光あって熱くないものにあたり、蛍火、朽木、生の海魚、海水、不知火、陰火抔は、実はリンが水素と化合した燐化水素である。肥後肥前の海にある不知火は平家の怨霊ではなく小さな魚が集まって「ポスポル」で光るものであり、人魂も人体が土中で腐敗するときに生じたポスポルである。

 

横山『怪談文化』はもともと「神経病」について知るために読んだ。明治期に精神の疾患が「神経病」と呼ばれたこと、それが有名な落語の『真景累ヶ淵』で取り上げられ、歌舞伎『木間星箱根鹿笛』(1880)では幽霊は存在しないとして、人が祟られたと思う現象は「心経病)と呼ばれた。江戸時代には「たたり」と呼んでいた現象を明治初期に「神経病」と名付けなおし、民衆芸能を通じて普及したのである(352