石黒忠悳と中江兆民の肺

 

石黒忠悳(1845-1941)は陸軍軍医で軍医総監をはじめ要職に就いた人物である。医学的な業績については、日清・日露戦争における兵士の脚気の流行において、陸軍の被害を拡大することになる方法を示唆したため、医学史家の評価は低く、山下政三は『鷗外森林太郎脚気紛争』(東京:日本評論社、2008)で石黒に苛烈な評価をしている。しかし、昭和の記録を読むと非常に人気がある人物であったという印象を持つ。『東京日日新聞』に昭和2年に連載された『味覚極楽』では、冒頭に登場してしじみ貝や鯛について語っている。

 

石黒には生前に刊行された『懐旧90年』という回想録があって、軍事医学史のプロは暗記するほど読んでいると思うが、私は時々ぱらぱらと眺める程度である。その中で、若いころの中江兆民が診断を求めてやってきた記述があったので書いておく。岩波文庫だと365ページからの記述である。明治12年か13年に、名も名乗らぬ若い男が自宅にやってきて診療を乞う。自宅では診断しない旨を告げて断ったが、その男の告げることを聞いて心中を察した。ある医者に見せたら左肺が悪い、別の医者に見せたら右肺が悪いと言われ、勉学を止めよと告げられたという。自分はフランスに留学して帰国し、有益なフランス書の翻訳に没頭したいが、どうしたらよいかと相談に来たという。石黒はその日に一度、後日にもう一度みて、このように断案を下した。右肺にたしかに故障を認めるが、この年齢でこの身体の人に勉強を禁じたら、学を成す人などほとんどいなくなってしまう、だから貴君は大いに勉強されよというわけである。それを聴いて彼は大いによろこび、自分は箕作の塾にいる中江篤介で、感謝にビールを二本置いて去って行った。それからしばらくして、ルソーの民約論が出て、彼は著名になっていった、そして後日談がある、というような記述である。

 

この部分を医学史的、あるいは医学的に再構成するとどういうことになるのだろうか。肺の故障というのだから、おそらく聴診器を用いて肺の音を聞いて、三人の医者の判断が違ったということだろう。で、中江兆民の「病気」は何だったのだろう。もちろん私には何が起きて、どうして3人の意見が違ったのかもよく分からないが、メモしておく。