現代医学のオリエンタリズム

 現代医学をオリエンタリズムとして捉える論文を読む。

 現代医学には、患者を物象化し、パターン化し、患者を身体の異常に還元する強力な制度的なドライブが存在する。その結果、現代医学の病気に関する言説は、患者についてのモノローグになっている。これが、マクロ・ミクロの権力関係で支えられているので、患者は人格を否定され、個人として自らの物語を正当な仕方で物語ることができない。つまり、患者が非人間化されている。

 これは、サイードが分析したオリエンタリズムの構造と似ている。オリエンタリズムにおいても、不平等な権力関係に基づいて、オリエントはステレオタイプに還元され、オリエント自身が自らを物語る空間は奪われてきた。
 
 だからこそ、オリエンタリズム的な医学権力に抵抗する拠点が必要になってくる。サイードにとってオリエンタリズムに抵抗する手段の一つが exile した知識人であったように、現代の医療批判にとっては、医学の境界横断である。つまり医学とそれ以外の境界、あるいは医者と患者との境界を越えた個人が重要になってくる。それは、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズのような「医者作家」であり、ケイ・ジェイミソンのように大きな病気をして「改心」した後に文芸作品を発表した医者である。オリヴァー・サックスはこの両方になる。
 
 プレディクタブルな議論だが、整理されたいい論文だった。しかし、私にとって面白かったのは、臨床医学の場が徹底的に政治化されていることである。こういった議論においては、医者と患者は、二つの対立する政治的な党派のメンバーとして理解されている。医者と患者の「協力」こそが、臨床の成功のバロメーターであると信じている(私が知る限りではどちらかというと保守的な)論客にとっては、憎むべき傾向であろうし、医者に抗して患者の権利を声高に唱える論客にとっては、歓迎すべき傾向だろう。このモデルの妥当性をめぐる闘いはしばらく続くだろう。

 しかし、それ以上に重要なのは、医者によって解読される患者の身体と、患者が意識する患者の人格が、二つの対立する政治的な実体に分割されて理解されていることだろう。患者は自分の中に、二つのイデオロギーを内包させたものとして、ポストモダンの医療を経験するのである。 ――そしてこのこと自体は、よいことでも悪いことでもないように私には思える。

文献はAull, Felice and Bradley Lewis, “Medical Intellectuals: Resisting Medical Orientalism”, Journal of Medical Humanities, 25(2004), 87-108.