中世の人生段階論



必要があって中世の人生段階論の研究書に目を通す。文献は Sears, Elizabeth, The Ages of Man: Medi eval  Interpretations of the Life Cycle (Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1986)

古典古代や中世の研究書を読むのが私の道楽である。全くの門外漢だからよく分かりもしないのに、膨大な蓄積の上に立ったスカラーシップの精髄を、ただ有難がって読む。この本も傑作で、「人生の木」「人生の車輪」といった中世ならでは面白い画像とその解説が満載である。

少年期、青年期など、人生を段階にわけることは我々にとっても自然だし、古くから行われていた。アリストテレスの幼年-青年-壮年-老年という四段階論は、それぞれ四季、四元素、四体液などに対応していると理解されていた。中世キリスト教ではアウグスティヌスの六段階論が大きな影響力を持った。幼年、少年、青年、壮年、老年、終末期である。アリストテレスの四分類の最初と最後を、それぞれ二つに分けたことになる。しかしアウグスティヌスの六分類は単に分類を少し細かくしただけではない。そこには世界が創造された過程と、世界の歴史とを、人生の段階に対応させるという発想があった。

神は六日で世界を創った。この六日に人生の六段階が対応している。世界の歴史は、アダムからノアまでが第一段階、ノアからアブラハムまでが第二段階という具合に進んで、キリストが現れてから現在までが第六段階で、第六段階はまだ続いている。ノアの洪水でそれまでの人類の営みが消し去られたように、幼年期の記憶は失われるとか、神が人間を創られた第六日に、キリストという人間の形を取って神が現れたとか、なかなかうまく対応ができている。

予想がつくように、この六分法のキモは七日目・第七段階にある。それは人間の一生における死の後にくる時期であり、神が世界を創ったときの第七日であり、現在という時代が終わったあとにやってくる時代である。それは、永遠の休息であり、安息日であり、そして千年王国の後に永遠に続く至福の時代である。一人の人間が、神が、世界が、通常の時間を過ごした後に、それまでとは異質で永遠に続く時間が待っている。そして、人はそれに向かって老いていくのだという理解である。

森羅さんとおとぼけ女医さんに説明したように、私はシイタケを根拠にして無神論を貫いてきたけど、こういう話を聞くと、私たちが「老い」を理解するモデルというのは、確かに限定された狭いものだなあと実感してしまう。

画像は「人生の車輪」ミュンヘンの州立博物館蔵の写本より、と「人生の階段」16世紀の版画より。