終戦直後の発疹チフス


 終戦直後に日本の各地で被害が出た発疹チフスの優れた論文を読む。文献はAldous, Chris, “Typhus in Occupied Japan (1945-46): An Epidemiological Sudy”, Japanese Studies, 26(2006), 317-333.

 著者は占領期沖縄研究を経て現在はGHQの公衆衛生の歴史を研究しているイギリスの研究者。この主題では杉山章子の書物があるが、杉山の書物が医療行政の組織と政策の研究であるのに対し、Aldous の研究は疾病とそのコントロールの現場に注目した社会史の視点を持っている。

 この論文のポイントは1945-6年にかけて3万人の患者を出した発疹チフスが外国から持ち込まれたのかどうかという問題である。この発疹チフスは日本で記録されている中では最大の流行で、北海道、大阪、兵庫、東京で被害が大きかったが、日本各地に広まった。特に東北地方で広い範囲の被害が出ている。この時期の感染症を問題にするときには、大規模な引き揚げが要因として疑われることが多い。日本よりも感染症が多かった旧植民地や占領地から600万人が先を急いで帰国してくるのである。例えばコレラがそうだが、実際に外国から持ち込まれて流行した病気もあった。1945年の秋から発疹チフスが流行し始めたときに、日本の医療関係者はこれを引き揚げ者が韓国から持ち込んだものと即断した。1914年に約7000人の患者を出した流行があって以来、日本国内では稀になっていた病気である。

 しかしこの論文は、1945年の引き揚げが突然チフスの流行を引き起こしたわけではないことを疑問の余地がないほど完璧に証明した。1930年代には一年に数人(一桁)まで減少した発疹チフスは太平洋戦争の開戦と共に急激な増加をはじめ、1942年には100人、43年には1374人、44年には3941人の患者が出ていた。1945-46年の大流行以前にも、おそらく戦争の長期化による生活環境の悪化に伴って、発疹チフスはじわじわと増加していたのである。特に、朝鮮からの労働者(その中には強制連行も同然のやりくちで連れてこられたものも含まれていた)が多く労働していた北海道や九州の炭鉱が、感染のハブになり、東北地方や九州から炭鉱に出稼ぎにきていた労働者にも感染した。これに加えて、米軍の爆撃と経済の壊滅にともなう極端な生活環境の悪化が、45-46年の流行に相当程度関っている。確かにそこには引き揚げも関与していただろう。しかし、引き揚げという原因のみが強調された背後には、発疹チフスのような不潔劣悪な環境でないと流行しない病気は、文化程度が低い劣等な朝鮮民族が住む地域から持ち込まれるに違いないという、旧植民地への優越意識に基づく偏見もあったにちがいない。

 もう一つ面白かったのは、シャツ一枚にして頭からDDTの白い粉をぶちまけるという発疹チフス対策の象徴的な側面を推定した部分である。「消毒される」という経験は、自らは清潔であるという誇りを特に植民地に対して強く持っていた日本人にとって、非常に屈辱的であったろうとAldous は推測している。アメリカのテクノロジーと科学の勝利の前に、裸で並んで消毒されるべき不潔な劣等の存在であるという屈辱を感じただろうという推測は面白いし、おそらく正しいだろう。それに加えて、アメリカの側にもその意識があったに違いない。DDTがターゲットにしたしらみという害虫は、戦争中のアメリカのプロパガンダではしばしば日本人に擬されていたのだから。