中国のエイズ

だいぶ前に「珈琲時間」のqianyumikoに推薦していただいた、中国のエイズ流行を素材にした小説を読む。文献は、エン連科『丁庄の夢―中国エイズ村奇談』谷川毅訳(東京:河出書房新社、2007) ゆみこさんのブログはこちらです。


中国の農村部で「売血」によってHIV/AIDSが広まっているというのは比較的有名な話だと思う。この書物の帯には「政府の売血政策で100万人とも言われる感染者を出した」と、責任の所在が分りやすい形で憶えやすい数字を出したフレーズが掲げられている。 例によって厳しい情報統制が敷かれていて、どこまで憶測でどの程度まで事実なのか私には判らないが、もし事実だとしたら、これは巨大な医原病の事例で、その被害の規模は日本の薬害エイズの非ではないだろう。

この書物は、中国の有名な小説家が、売血の結果HIV/AIDSが蔓延して村人の殆どがエイズに苦しむことになった村に数回滞在して取材して、その経験と見聞を素材にして描いた小説である。村人に血を売らせてそれで財を築いて上昇しようとする「父」と、村の中にとどまってそれを深く恥じる「祖父」が主なキャラクターで、その「父」の息子で、村人の恨みを買って毒殺された「私」が、エイズに侵された村人たちの生きざま・死にざまを物語るという形式を取っている。私としては、中国のエイズ蔓延のメカニズムの事実を知りたいという欲求が先にたってしまうけれども、感染が広がるメカニズムは、この小説を読んでもあまりよく分らない。注射針を消毒しなかったからHIVに感染するというのは分るけれども、それ以外は何がどうなっていたのか、よく分らない。(ご存知の方、教えてください。)そもそもそうやって売られた血液は、いったいどう使われたんだろう?でも、そういう読み方よりも、この書物は慢性感染症に打ちひしがれ、人々が緩慢な死への向かっていく貧しい村を描いた優れた小説として読むべきだろう。

血を売らなければ貧困を脱出できないような貧しい村で、まともな医療システムが機能していないような土地に、死病に侵された一群の人々が現れるということは、社会と人間の本質を白日のもとにさらす。その本質は、醜く卑しいものでもあるし、逆説的に美しいものでもある。病気をもたらしたものへの怒りや怨念は、親子や夫婦の間をむごたらしく引き裂く。感染によって崩壊した夫婦の片割れ同士が不倫の関係を結び、死を目前にしてお互いの病気に侵された体を求め合い、死ぬ前に結婚して晴れて夫婦になるために、別れた夫・妻に正式な離婚を要求するストーリーは、小説の中核をなしている。AIDSに侵されて死を目前にしている二人の間に存在する愛情が美しいと思う人もいるかもしれないが、このくだりを読むのは痛々しかった。売血で財を成した「父」は、今度はその売血HIVに感染した人々のために棺桶を売って、さらに巨大な財を成して村を去るが、最後にずっと村に残って患者たちの生活を見守ってきた「祖父」は自分の息子を殺す。

感染症に襲われた社会を描いた名作というと、どうしてもカミュの『ペスト』と較べてしまう。カミュの『ペスト』が描くのは、「生にその真摯さを取り戻させる死の侵入」(ソンタグ)であるとすると、『丁庄の夢』が直視して主に描いているのは、HIV/AIDSの蔓延があらわにする、社会と人間の滑稽な卑屈さだと思う。患者たちも健康なものたちも、思い思いの身勝手な理屈をこねては、他人のものを盗み、皆の食料をくすね、弱みに付け込んでは有利な遺言を残させ、村の政治家ぶりを発揮する。その意味で、『丁庄の夢』はペシミスティックな小説だといってよい。そして、この小説とカミュの傑作の一番違うところは、「責任の所在」といえる悪役がはっきりと分るかどうかということだろう。『丁庄の夢』では、「父」という個人が、とりあえず悲劇の原因になっていて、登場人物たちに憎まれている。こういう書き方をしないとしたら、この小説はどうなっていたのだろう?あるいは、こういう構成の小説が書かれて高い評価を受けるということは、私たちの時代について、何かを物語っているのだろうか?

色々と考えさせる、とても面白い作品でした。yumikoさん、ありがとうございました。