1855年に江戸を襲ったマグニチュード6.9(どうやって出した数字なのだろうか?)の大地震について、緻密な研究と、鋭い洞察、流麗な語り口を組み合わせた書物である。特に、阪神大震災の経験と組み合わせて、PTSD論が与えてくれる洞察を共鳴させながら書く部分は、プロの歴史学者だけでなく、多くの一般の人に面白いと思われることは間違いない。特に心に残った部分を抜書きする。
「『これは世の中が末になってしまったんで、この分じゃ明日っからお天道様もお出になるまいといってその日を明かしましたが、翌朝ちゃんと明るくなったんでございます』この明治の故老の談話ほど、「日常性」という言葉をうまく定義する言い回しは見つからないだろう。日常性とは、陽がまた昇ることなのである。災禍と生活不安をたちまち既成事実として取り込み、社会が上下もろともに「その日暮し」を送る幕末最後のサイクルの日常性が流れ始める。」
このあたりの文化的・社会心理的な洞察も面白いのだけれども、今の私自身の研究の関係上、釘付けになってむさぼるように読んだのが、江戸の町が当時の形を取る以前の地形と、地震の被害の関係の部分である。すごく簡単に言うと、埋め立て地である今の都心の日比谷あたり(昔は入り江だった)は、地盤が軟弱なため、揺れが激烈であった。そのあたりには、当時の幕閣の屋敷や大名の屋敷が並んでいて、彼らの屋敷も激甚な被害を受け、幕府の支配の中枢は麻痺した。いっぽう、深川あたりも広大な埋立地であったが、そこには困窮した農村を脱出して江戸にやってきた都市下層民が住み着く劣悪な長屋が建てられていた。 激しい揺れと劣悪な住宅の密集という二つの条件が重なったこの地域では、被害は日比谷の日ではなかった。日比谷では揺れは激しかったが、家は密集しておらず、建築物は堅牢であったからである。深川の貧民たちは、大地と住居が強烈に「震盪」する衝撃の中で押しつぶされていった。ある記録はそれを「紙を揉んだようだ」と表現しているという。
地層と地形、特に地下水が手に入りやすいかどうかという問題が、明治初期の水系感染症の伝播に決定的な役割を演じたという史実を実証しようとしているので、とても参考になった。