新着雑誌(というか、目を通すのが遅れていたかつての新着雑誌)から、ADHDの歴史を論じた論文を読む。必ずしも本格的なリサーチと分析をしている論文とはいえないが、要点を論じた読みやすい論文で、私は多くを教えられた。文献は、Mayers, Rick and Adam Rafalovich, “Suffer the Restless Children: the Evolution of ADHD and Pediatric Stimulant Use”, History of Psychiatry, 18(2007), 411-434.
ADHD(注意欠陥・多動性障害)の子供は大昔からいたかもしれないが、それが医学の概念として最初に結晶したのは1902年のことである。ロンドンのキングス・コレッジ医学校の小児科医であったサー・ジョージ・フレデリック・スキルが、知能自体は正常だが、「落ち着きがなく、暴力的な発作を起こし、破壊的で、処罰にも反応しない子供たち」を報告したのが、ADHDの概念の医学的な起源である。スキルはこれを道徳的な自己抑制の欠如として捉え、ダーウィニズムの枠組みの中での発達の障害だとしていたが、イギリスの発達・学習障害(当時の言葉で言うと「知能の遅延」)の大立者の医師であったアルフレッド・トレッドゴールドは、1920年代の著作でこれを脳の損傷と結びつけ、ダーウィニズムの枠組みから離れて、「脳炎」後の後遺症ではないかという仮説を立てていた。この時期は「嗜眠性脳炎」などが発見されてその後遺症で精神や情動に異常が出ることが論じられ、また史上最大のインフルエンザ流行の後遺症が報告されるなど、脳の障害にその原因を求めつつ、遺伝とは別のメカニズムで発達障害を理解する方法も模索されていた。