必要があって、近代日本の医療の歴史をおおづかみで捉えた著作を読む。文献は、猪飼周平『病院の世紀の理論』(東京:有斐閣、2010)。これから少なくとも10年間か20年間は、日本の医療史を論じるときに必ず参照しなければならない重要な著作である。
国際比較が基本にあって、そこで理論的な概念装置を鍛えて提示し、具体的には日本の事例についてのみ展開するという、とても賢い構成になっている。この構成だと、理論と概念は広がりを持たせて国際的に通用するものになる一方で、具体的な事例分析について、自分が日本で発見した事例とうまく対応する事例を他の国から発見するという、不可能ではないにしても非常に難しい仕事をしなくてもいい。
著者の議論をまとめると、イギリス・アメリカと比べたときに、日本の医療の特徴は、1) 専門医の優越、2) 医療資本の私有 によって特徴づけられる。1) は、プライマリケアとセコンダリケアを分けたときに、セコンダリはもちろん、プライマリケアも、専門分化された教育を受けた専門医が担っていること、つまり、イギリスでプライマリケアを担っているGPのような、コンサルタントに較べて教育と訓練の程度が低い一般医がいるという身分構成がないということである。2) は、開業医が設立する私的な病院が、病院と病床のかなりの部分を担っていること(2000年で、病院数で70%、病床数で54%が開業医によるものである)であって、これは、アメリカのような、私的な開業をしている医者が公的な病院を使えるシステムとは異なっている。
このような、身分制をもたず、病院が私的な資本として供給されているという特徴をもつ医療システムは、日本では20世紀の初めに形成されて、その後は変化しなかった。その意味で、20世紀は「病院の世紀」であり、21世紀には、これは治療の拠点としての病院が独立するのではなく、多様なネットワークの中に組み込まれる新しいシステムによって解消されるという。国際比較と21世紀についての予言については私には判断する資格はないし、また、日本の仕組みを「病院の世紀」と呼ぶことができるのかどうかが分からなくて、私が大事なことを理解していないか、著者が大事なことを言っていないかのどちらかだと思う。しかし、日本のシステムが形成される仕組みについては、鮮やかで説得力がある説明が展開されていた。一つのカギは、松方財政下で公立病院・医学校の建設が挫折したあとに、東大卒のエリートたちが開業して成功したら病院を作るという流れを作り出したこと。このことは、帝国大学卒から医専卒、開業試験合格、はては従来開業までの巨大な学歴差が存在していた明治日本の医療において、身分システムの成立に向かわず、開業医という領域の中での成功やプレスティージの差異ができる方向に向かったことを鮮やかに示している。
これ以外にも、鋭く的確な洞察が満載である。特に川上武らの「医療の社会化」論が提出した、1920年代から戦前においては資本主義的な開業医制度が行き詰まっていたという理解については、徹底的な批判を試みている。賛成するにせよ反対するにせよ、日本医療史を研究するものであれば、この部分は誰もが読まなければならない章である。