ホイジンガ『中世の秋』

必要があって、ホイジンガ『中世の秋』を読む。

中世という時代、特に14.15世紀のとらえ方について。近代文化の萌芽を中世にさがし求よう、すべてが近づく完成を目指していた時代であると捉える考え方は近年勢いを得ている。しかし、歴史においても、自然におけるのと同様、死と誕生はその歩調を一つにしている。古い文化の諸形態が死滅し、そのとき、同じ土壌に新しい文化が養分を吸い、花を咲かせるのである。 7

生活のさまざまな相が、残忍までに公開されていた。 12  

1429年、民衆説教師リシャールは、のちに聴罪師としてジャンヌ=ダルクのそばにいることになる人物であるが、パリで10日間ぶっとおしで説教した。朝の5時にはじめ、10時か11時におよんだ。それは聖イノサン墓地の納骨堂のまえでおこなわれ、その納骨堂のアーチの下には、骸骨がうずたかく積まれていた。10回目の説教をおえて、これが最後の説教である、もうこれ以上の許可を得ていないというと、誰もが悲しげに泣いた。かれもまた泣いていた。民衆は、彼がもう一度、パリの外のたとえばサン・ドニで説教をするだろうと考えて、土曜の夜、街を出てよい席を確保しようと野原に一夜を明かした。その数は6,000人であった。

47 生活ははげしく多彩であった。生活は血のにおいとばらの香りをともに帯びていた。 49-50. この時代、貪欲ほどの罪はないと考えられていた。傲慢と貪欲とは、これを対照させて、古い時代の罪と新しい時代の罪とみることができる。傲慢は、所有ないし富がほとんど動産のかたちをとっていない時期の封建的階層社会の罪である。この時期の権力は、富というよりも人間そのものに根差しているものであった。傲慢は象徴罪であり、対神罪である。傲慢は、すべての悪の起源であり、魔王の傲慢こそ破滅のはじまりであり、原因である。そうアウグスティヌスは観じ、のちの時代もそう理解した。(しかし)13世以降、世界を破滅させるのは奔放な貪欲だとの確信が、たしかに広くひろまって、傲慢に対する評価を下落させ、第一の決定的な罪とみられていた傲慢を、その座からひきずりおろしたとみてよいだろう。それまで神学において優位を保ってきた傲慢は、時代の禍はすべてこれ、ますますはびこる貪欲のせいだとの、ますます高まるシュプレヒコールの前に失脚したのである。貪欲は、傲慢の属性である象徴性、対神性を欠いている。それは自然の物質に根ざす罪、真に地上の情熱である。貨幣流通が権力増大のための諸条件を書き換え、権力を解き放った時代の罪なのだ。 

277 人の世の美とおごりとから、いったい何が残るのか。記憶と名のみ。だが、この時代、ひとは死の前にはげしく戦慄したいと望んだ。 だから、この時代は、目に見える恐怖、約言すれば無常性そのもの、すなわち肉体の腐敗を映す鏡を前にすえたのであった。

278 かくも執念深く、厭うべき死の地上的局面にこだわるとは、これは、いったい、真に敬虔な信心のあらわれなのか。それとも極度に官能偏重の生活態度への反動なのだろうか。生の衝動を麻痺させる官能も、こうすることによって、ようやくその魔力をとくというのか。それとも、この時代、人々の心を強くとらえていた生の不安のあらわれなのか。そこにうかがえるのは、悔いなく戦い、勝利を得たもののにの知る、真の諦念へと志向しながらも、なお、生身の人間の情念にぴったりよりそっている感情、幻滅と落胆の気持ちなのだろうか。

278 ある修道士 「肉体の美は、ただ皮にのみ存している。なぜというに、皮の下にあるものを、ちょうど、ボエオティアの山猫がそうするといわれているように、みることができるならば、ひとは、女をみて、おぞけをふるうことになろうではないか。女の魅力は、ただ、粘液と血液、体液と胆汁とに存する。いったい、考えてもみるがよい。鼻の孔には何があるか、喉の奥にはなにが、腹のなかにはなにが隠されているか。みつかるのは、ただ、汚物のみ。その痰だの糞だのには、指一本だに触れようとはしない。そんなわれわれだのに、いったいどうして汚物袋を抱きたがるのか」


294-5 シャトランの「死の鏡」
手足、からだに、くされ匂いの
匂わぬところとてない、
魂、からだを離れるまでは、
心臓、からだをはりさかんものと、
高鳴り、胸持ち上げて、
その胸、いまにも背骨にくっつかんばかり。
―顔は色なく、あおざめて
両目くぼんで網目がかかる。
ものいう術も失われる、
舌が上あごにひっついたから。
脈はふるえて呼吸もあえぐ。
骨は処処ほうぼうでがたがたになり
神経ははりつめてちぎれんばかり

死ぬとなると体はふるえ、色あおざめ
鼻はまがり、血管はのび、
首はふくれ、肉はだらけれやわらかく
関節と神経はゆるんでたるむ。

女体よ、かくもやらわかく
なめらかに、甘く、かくもとうとい、
おまえでさえも、この禍事を待つ身なのか、
そうだ、さなくば生きて天国に行かねばならぬ。