『私は赤ちゃん』以前の松田道雄

和田悠「松田道雄における転向と戦争経験―戦後民主主義の歴史的契機として」渡辺秀樹・有末賢『多文化多世代交差世界における市民意識の形成』(東京:慶應義塾大学出版会、2008), 211-236.

『育児の百科』『私は赤ちゃん』で有名な小児科医の松田道雄の戦前の思想形成を扱った論文である。松田は1928年に京都帝国大学医学部に入学し、そこですぐにマルクス主義に出会う。松田は当然のようにマルクス主義に強く惹かれるが、同時に違和感も感じていた。マルクス主義に惹かれ、それから脱落するという、ある種の「転向」体験であった。松田は戦時期には京都の結核相談所で小児結核を研究し、動員体制にも協力し、個人の生命を国家の生産力の問題ととらえるなかで医療をすることなどを『文芸春秋』に書いた。ボードレールやチェホフやメリメを読んだ。特にチェホフは、時代を超えて絶望的な状況のなかで誠実であろうとした点で自らを重ねることができた。また、戦時中に、松田は家庭と平和な日常の価値を強く感じた。家庭とは、「灯火管制の黒幕のなかで敵機の爆音をききながら、夫婦だけで『どうやら先が見えてきたようだ』とか『早く軍が降参してくれないかしら』とか、自分の心で思っていることが口に出せる」場所、つまり言論の自由がある場所であった。戦時下における家庭領域は、「まともさ」の感覚を保持することを可能にする人間性の解放の場所として経験されていた。

私が子育てをしているときには、松田道雄の本を500回くらい読んだと思う。その教養主義的なトーンが好きだった。「腸重積」という病気があって、その病気で子供が死なないようにすることは、母親にしかできないことだと断言した厳しさと男性中心主義に、私は最初は反発したが、いつか、その厳しさを、私たちが失った何か価値があるものを象徴しているように思うようになった。 それは、なんというのかな、結婚や子育てというのは、時として厳しさをもって維持しなければならない、重要なプロジェクトであるという心構えであるというのかな。 爆音のもとで家族と話す松田の姿に、なんとなくその思いがかぶせられた。