進行麻痺と器質痴呆

進行麻痺について基本的なメモ。精神医学辞典や Wikipedia などから。

進行麻痺 (general paralysis, GPI) は、梅毒が進行して第四期となり、脳実質が侵された時に発症する精神疾患である。1822年にパリの Antoine Bayle によって独立した疾患として記述される。麻痺を中心とした身体症状、病理所見が鮮明であり、梅毒との関係が長く疑われていたが1913年に野口英世が進行麻痺患者の遺体の脳のサンプルにスピロヘータを発見して決着がついた。原因、身体症状、病理所見がはっきりした唯一の精神病としてのいわゆる「モデル疾患」となり、疾患単位という概念のもととなった。診断方法としては、瞳孔の形状、対光反応の欠如、言語障害、運動障害、腱反射亢進などが用いられたが、血液と髄液のワッセルマン反応により、スピロヘータが存在すること、特に脊髄がスピロヘータにより侵されていることを調べることが決め手となった。かつてはいったん発病すると放置すれば平均3年で死亡し、その末期の症状は悲惨なものであったため、著しい恐怖の対象であったが、1917年にワグナー・ヤウレックによってマラリア発熱療法が発見されたことは、重篤な精神病を治療できるという新しいオプティミズムの時代の先触れとなった。私が見ている昭和戦前期の精神病院では、進行麻痺の患者はとても多く、約7000件の入院件数でいうと27%をしめ、分裂病の37%に次ぐ割合である。男性患者だけで見ると約1600件が進行麻痺で、分裂病の1500件よりも多い。これは、当時は梅毒の罹患が多く、また治療可能性がことあげされた時代であったことと関係があるのだろう。進行麻痺は文学作品にもしばしば登場し、Wikipedia は、ウィラ・キャサーの The Song of the Lark, アガサ・クリスティーの A Pocket Full of Rye などを参照しているが [以上の二作品を読むこと]、ここは、イプセンの『幽霊』を参照すべき箇所だろう。多少の曖昧さはあるかもしれないが、梅毒による重篤な精神病を描いた傑作である。

 

進行麻痺は、現在ではほぼ消滅した精神疾患である。学会では、これを診療したことがあるかなり年配の精神科医が誇らしげに話すし、私がこの疾患についてお医者さんがいる学会で話すと、「なんていう病気ですか?」と聞かれたことすらあった。現在では消滅したが、過去には多かった疾患を分析すること自体は、もちろん歴史学の本領だからそれだけでもいいのだが、現在とつなげる視点もあることに気がついた。

 

それが、器質痴呆 dementia paralytica のカテゴリーを用いることである。これは脳気質疾患に起因する痴呆であり、いったん獲得・形成された知的諸能力と人格が準全面的かつ重篤な仕方で崩壊することである。これらは統合失調症による分裂性痴呆 schizophrenic dementia などから区別される。重要なポイントは、濱中先生のお言葉を借りると、「病因の頻度には時代的変動がある」ということである。かつては進行麻痺であったが、現在ではアルツハイマーや脳血管性疾患が優勢となっている。つまり、まず疾患分類的には、進行麻痺は、アルツハイマーや脳血管性疾患による精神疾患などの歴史的な先行者として捉えることができるのである。

 

それと同時に、症状・言動と社会的な問題についても、類似点と相違点で着目するべき点が多い。一つの特徴は徘徊である。昭和戦前期の進行麻痺の患者も現在の器質痴呆の患者も、家を出歩いて街で問題を起こして入院に至ることが多い。年齢階層においても、進行麻痺は40代から50代の中年であり、現在は高齢者である。このあたりを枠組みとして使うと、進行麻痺を消滅した疾患としてではなく、消滅したが現在の問題に間接的な光を当てることができる疾患となるだろう。

 

画像は昭和戦前期によく用いられた下田・杉田の教科書に掲載された進行麻痺の患者の写真。悲惨さと人間性の崩壊というイメージをよくあらわしている。

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