梅毒と19・20世紀の天才と有名人たち

Hayden, Deborah, Pox: Genius, Madness and the Mysteries of Syphilis (New York: Basic Books, 2004)

梅毒と芸術的な創造性の歴史についてのしばらく前の話題作。基本的なスタンスは、病跡学 pathography であり、過去の文学、絵画、哲学上の有名人を取り上げて、その人物たちが罹患してさまざまな病的な症状が現れている時期の創作活動に梅毒が影響を与えているかどうかを論じるものである。この手法は、引退した医者が趣味で行う余技的なものとして、新しい医学史研究の中で評判は高い方法ではない。また、過去の個人が性病に罹っていたことを取り上げることは、有名人のゴシップに通じるものがあるので、学術的な論文ではあまり見なくなっている。しかし、優れた病跡学は読みごたえがあるし、この書物は、私が読んだ範囲では、もっとも成熟した作品の一つであることは間違いない。

 取り上げられている人物としては、19世紀が中心で、ベートーヴェンシューベルトシューマンボードレールリンカーンの妻のメアリー・トッド、フローベールモーパッサンゴッホニーチェオスカー・ワイルド、カレン・ブリクセン、ジェイムズ・ジョイス、そしてヒトラーである。この中には、ボードレールニーチェモーパッサンのように、梅毒に罹患していたとだいぶ以前から認められていた患者もいるし、シューベルトのように、精神病院に入院中の症例誌や手記が1990年代に公開されて梅毒と確認された患者もいる。ベートーヴェンヒトラーなどは、状況証拠はあるが、著者も確定していない患者もいる。どのエントリーについても、病跡学の醍醐味を味わうことができる。

一つ、興味深いと同時にやや危うい議論の形式について。ある人物が梅毒であると確定されたり推測されたりすると、その人物の有名な作品や重要な行動が、果たして病気と関係あるのかどうかという議論が当然のように出てくる。重要な作品が梅毒に罹患した時期に創作され、そこに込められている芸術的な価値が、作家が病人であったことと深く関係する、場合によっては創造的なエネルギーの発露を梅毒の症状と関連するという議論になるときには、過去の病気をネガティヴなイメージから解放するという意味で、プラスの方向に働くという意味がある。一方で、例えばヒトラーについて、彼がユダヤ人の売春婦から梅毒をうつされたせいで、ユダヤ人憎悪やホロコーストのような復讐の衝動を持つようになったという議論は、危うい方向に進む議論であるという印象がある。プラス方向であれマイナス方向であれ、このような議論が難しいのは、梅毒が great imitator と呼ばれるように、万華鏡のように多様な症状を示す疾病であるという、方法論の根本に難しさを抱えているということもある。そのようなことを考えさせるが、読んでおいたほうがいい著作であることは間違いない。