宮廷と医学のパトロネージ

 未読山の中から、17世紀のイギリスの化学的医学の社会的な基盤についての論文を読む。 文献はCook, Harold J., “The Society of Chemical Physicians, the New Philosophy, and the Restoration Court”, Bulletin of the History of Medicine, 61(1987), 61-79.

 17世紀のイギリス革命にともなって、医学の理論とあり方についての根本的で広範な議論が巻き起こったことは、ウェブスターの大著などを通じてよく知られている。同時期に古いガレノスやアリストテレスの思想にかわって「新哲学」と呼ばれるいくつかの医学理論が登場したが、その中でも注目に値するのはヘルモントの化学的な医学である。ヘルモント主義を奉じる広義の医者たちが1665年に、「化学的医者協会」を設立しようという運動を始める。これは、1518年に設立され、革命後に首都の医療を規正する権限を再び確立しようとしていた王立医師協会にとって大きな脅威であった。クックの論文は、この化学的医者協会についてのソリッドな研究である。

 クックによれば、この協会設立の背後にあったのは、医療に対する広範な社会的な位置づけというよりも、宮廷における化学的な医学への受容と興味である。この協会設立の首謀者であったThomas O’Growde は、医学の正式な訓練は何も受けていなかったが、自宅の実験室で作った化学的な治療を国王や王の取り巻きの貴族や廷臣などにほどこして宮廷で人気を集めていた廷臣であった。オグロウドが、自分のシンパの貴族などに呼びかけて、旧体制の医学を批判し、新しい哲学に基づいた医学団体の設立をもくろんで設立を呼びかけたのが、「化学医者協会」であった。オグロウドは、1666年のペストで逃げ出す医者たちを批判して自分はロンドンに残って治療を続けていたが、結局このペストで落命する。そのため、この新団体設立の運動は立ち消えになったけれども。このマイナーなエピソードが丁寧なリサーチで跡付けられている。

 宮廷で治療を成功させた医療のパトロネージが医学の方向を決定付けたケースはたくさんある。日本の蘭学や種痘の実施なども、各藩の藩主が新しい医学にどの程度受容的かで大きく影響された。こういった「宮廷での治療の成功→学派の社会的確立」の話は、しばしばエピソード的な扱いしかされないが、実は医学の正当性が求められる根拠という大きな問題に光を当ててくれる。医学を正当化する社会的な組織の中で、最も劇的な衰退をとげたのは宮廷である。広尾の愛育病院を除けば、私たちは皇室がどんな医者にかかっているのかすら知らない。・・・と思うんだけど。それとも知らないのは、私だけかしら・・・