辻邦夫『安土往還記』

ふと確かめたいことがあって、辻邦生『安土往還記』(新潮文庫)のページを繰る。イエズス会士とともに日本にやってきたひとりのジェノア人が見た信長を主人公にした歴史小説である。ここに登場する信長は「意志の人」であり、何かを達成するためには、人命であれ自己の感情であれ、あらゆるものを犠牲にする覚悟を貫いた人物として描かれている。辻は「事をして成らしめる」という言い方をしているが、大切なのは「何か」を達成する意志なのであって、その「何か」が特定されていない。それどころか意志の行き先は何でもよいとすら考えられる。

 確かめたかったところは、語り手であるジェノア人が日本にくるまでの経緯が書かれている冒頭の箇所。彼は、妻が愛人と寝ている場面を目撃し、激昂して妻を刺し殺して逃亡する。19世紀のフランスの司法精神医学の言葉で言うと、「情念の犯罪」にあたる行為で、責任能力の低下を理由にして免責されたり減刑されたりするケースである。この行為を犯した語り手は、自分の犯罪を次のような面白い仕方で説明している。

「私にとっては、というより私の愛情にとっては、妻の裏切りは、当然、死によって購わなければならぬものに思われる。もし私が罪と感じ、法に服するとすれば、私が抱いた愛情といい、人間としての誇りといい、すべて泥土の中に投げ捨てることになる。また同じようにして、私がそのような宿命の暗い力に支配され、その結果、かかる行為を強制されたと信じれば、私の内なる自由も、激しい情念も、はじめから存在しないことになってしまう。私は愛の激情から妻とその情夫を刺殺した。しかもそれは私の自由意志により、私の自由な選択によって行われたのだ。」 
「私は自分に襲ってくるすべてのことを(たとえ道で石につまづこうが、御者たちに身ぐるみ剥れようが、それさえも)、自分が意志し、望んだこととして、それにかじりつき、もぎとり、自分の腕にかかえこまなければならないのだ。どんなに運命が私に追いつき、私の先を越そうとしても、私は必死でその前へ出て、『私がそれを望んだのだ。それは私の意志なのだ』と叫ぶのである。」 

しばらく前に秋元の本を記事にしたとき、殆どの方のコメントが精神障害による免責に否定的・懐疑的だった。そのときは正直言って当惑したけれども、この辻邦夫の設定を読んで、少し分かってきたような気がした。