スコットランド啓蒙の医学思想

 未読山の中から、18世紀後半のエディンバラ医学校の教授、ウィリアム・カレンの治療学の哲学を読む。文献は、Stott, Rosalie, “Health and Virtue: or, How to Keep Out of Harm’s Way. Lectures on Pathology and Therapeutics by William Cullen”, Medical History, 3181987), 123-142.

 今の医学部の講義もそうかもしれないけれども、18世紀の医学校での講義のキモは、教授が出版した教科書には書いていなかった。だから学生が取った講義ノートの類を読まないと、その教授の授業で何が大事だったのか分からない。(むろん、それほど重要なものだから、講義ノートが出版されることもあった。)この論文はウィリアム・カレンという、18世紀後半のヨーロッパでもっとも人気があった医学教授の病理学・治療学の講義ノートから、カレンの治療がどのような志向を持っていたかを再構成したもの。カレンの生理学を扱ったクリス・ローレンスの有名な論文のような広がりはないが、資料に密着した着実で鋭い分析は、学生に治療に関するテキストの分析の基礎を教えるのに最適である。

 カレンの治療法の基礎にある思想は、外界からの刺激に対して、内界の平安を保つというもので、友人でもあった哲学者のヒュームなどから吸収したストア哲学がモデルになっている。外界からの刺激を媒介するのが「感受性」と呼ばれた生理的な機能であり、それに対して行動を起こすのが「被刺激性」と呼ばれ、主に筋肉に宿る機能であった。身体の機能を活発にさせるのが、stimulant と呼ばれたものであり、低下させるのが sedative と呼ばれたものであった。この両者の按配を調整して病気を治し健康を保つのが医者の治療のモデルであった。

 ストアの「心の平安」を理想とする哲学に基づいた治療というと、身体と外界の間のバランスが取れていて、身体(と心)の擾乱を避けることに重きが置かれそうに見える。しかし-と続けるべきだろう-、カレンの治療法においては、stimulant、つまり身体を活発にするほうに大きく重心がかかっているという。著者はこういう言葉は使っていないが、vita activa を目指す治療法なのである。つまり、カレンは、ストアの受容的な平安ではなくて、より活動力に満ちた状態を健康だと考えて、治療の目標にしていたのである。

 これと関連することだけれども、一つカレンの面白い意見が紹介されていた。健康法の階級性についてである。カレンが「健康を保持する方法について」という著作を準備したときに、彼は二つの階級にとってこの著作は受け入れられないだろうと考えていた。一つは貧困階級である。彼らは、厳しい状況で暮らし重い肉体労働をしているから健康であり(馬鹿げているけれども18世紀には一般的な意見である)、健康法はあまり必要とされていない。もう一つ、こちらのほうが面白いのだけれども、上流階級、特に「政治家と将軍」は健康法を受け入れないだろうとカレンは考えていた。その理由は、一見したところ特に病気でないのに、健康を気遣って健康法に熱を上げて通常の社会生活を犠牲にすることは、「自分勝手で非社交的なばかげた行為」とみなされるからである。特に政治家と将軍は、公共の利益のためには自分の健康はおろか生命を犠牲にする職業だから、この階級が健康法に熱中することはありえないだろうという理屈である。となると健康法を実行するのは、苦しい肉体労働から自由な中産階級ということになる。このエピソードは色々と発展させることができる。健康法の階級性はもちろんだし、それから、人生の中のいくつかのプライオリティという議論もできる。「個人の利益を超えた目的のために健康はおろか生命を犠牲にする」というと、誰もが過労死を思い浮かべるだろうけれども、カレンが「健康に気を使うこと」の背後には、市民社会の善とは相容れない狭隘な利己的な欲望があるのだと考えていたことは、ちょっと面白い。 さすが「北方のアテネ」と呼ばれた「市民社会」の哲学者たちの街、エジンバラのナンバーワン医学教授だけあって、思索が深い。