細菌学から社会医学へ

必要があって、世紀転換期から第一次大戦までの社会医学の展開を学生向けに解説した章を読む。文献は、Weindling, Paul, “From Germ Theory to Social Medicine: Public Health 1880-1930”, in Deborah Brunton ed., Medicine Transformed: Health, Disease and Society in Europe 1800-1930 (Manchester: Manchester University Press, 2004), 239-265.

ベテランの実力者で、東欧・ドイツ・フランス・イギリスと、ヨーロッパを広くカバーするリサーチをしている碩学の実力が発揮されている。世紀転換期にヨーロッパの公衆衛生が、流行病と戦うという、言ってみれば「火事場」的なモードから、健康を決める社会的な要因に注目し、その要因を操作して国民を健康にするために、日常生活に深くかかわるようになった過程が、ヨーロッパをまたにかけて、その共通性と違いをうまくまとめながら解説されている。とてもよくわかる記述になっている。

一番感銘を受けたのは、第一次大戦中の流行病(具体的には発疹チフスである)に対しては、各国は、細菌学の洗練も、社会医学のトータリティも忘れて、まるで中世にペストに対した時のように対応したという、非常に深いインプリケーションを持っている節だった。西ヨーロッパではすでになくなっていた発疹チフスは、バルカン半島ではまだ存在していて、セルビアでの軍事行動により、オーストリアやセルビアの軍人、民間人に20万人を超える被害者が出て、東欧に広がった。この発疹チフスが東からドイツの戦線を突破して侵入することを防ぐために、消毒隊は村の家屋を消毒し、それを焼き払い、国境では厳格な健康チェックとシラミ除けを行った。そのときにシラミ駆除のために使われた殺虫剤がチクロンであり、これはのちにユダヤ人をガス室で殺すのに使われた。そういう偶然の一致だけではなく、強権的なシラミ除けは、ユダヤ人やジプシーに対する人種的な嫌悪と憎しみを、医学政策の中に組み込んだものとなった。社会医学が進展した時期においても、ある事情のもとでは、「よそ者」を強権的に消毒する衛生政策に「退行」したことを論じた部分は、この著者らしい冴えと深みがあった。