新着科学史雑誌から

後藤新平を帝国のネットワーク論の枠組みにはめこんだ論文と、津田梅子がアメリカでは生物学を学んでいたという史実を紹介した論文。前者は、Low, Morris, “Colonial Modernity and Networks in the Japanese Empire: the Role of Goto Shinpei”, Historia Scientiarum 19(2009-10), 195-208. 後者は、古川安「津田梅子と生物学-科学史とジェンダーの視点から」『科学史研究』49(2010), 11-21.

前者は、後藤新平の三つの側面-衛生局の局長であり北里の弟子たちを植民地の公衆衛生に送り込んだこと、満鉄の総裁であったこと、NHKの初代会長であったことの三つを取り上げて、そのいずれもが帝国経営の側面を持っていたことを指摘した論文。後藤がA Historical Geography of the British Colonies を日本語に翻訳させて1898年に台湾で出版していることを知った。

後者は、津田梅子がアメリカに留学したときにブリンマー大学で生物学を学んだことを取り上げ、その細部を肉付けしたものである。当時のアメリカは、ホプキンズが牽引した実験医学が「生物学」として各地で教えられており、ブリンマーもホプキンスを卒業した享受とスタッフが生物学を教えていた。梅子は生物学を専攻し、臨海実験にも参加した。後にショウジョウバエの突然変異でノーベル賞をとるモーガンがホプキンズを卒業してすぐにブリンマーに着任してモーガンの教えをうけ、モーガンと梅子は共著でカエルの卵の軸定位についての論文を書いたという。その才能を認められた梅子は、モーガンを含めた教授たちに大学の研究室に残るように進められたが、梅子はそれを固辞して(モーガンらは断るとは何事かと憤慨したそうだ)帰国して日本の若い女性に英語を教えることを選んだ。残っていたら、きっと、生成期の実験科学を切り開く偉大な科学者に仕える有能な素晴らしい助手としての人生が待っていただろう。自分ではなく、自分が仕える人の成功に心をときめかせる人生が。 その人生と、日本の高等女子教育を創始する夢との分岐点に立った梅子さんは、どんなことを考えたのかな。