シンガー/アンガーウッド『医学の歴史』

チャールズ・シンガー、E.A. アンダーウッド『医学の歴史』酒井シヅ・深瀬泰旦訳、全4巻(東京:朝倉書店、1985-6)
古代エジプトから20世紀半ばまでの医学史の通史である。日本語の書物としては、川喜田愛郎『近代医学の史的基盤』と並んで、私たちが標準的に備えていなければならないとされているが、実は、私はこの本は持っていなかった。何回か見た時に、あまりいい印象を持たなかったからである。しかし、先日、参照する機会があって、すぐにこれは手元において常に参照しなければならない書物だと気がついた。これまでの不明を恥じる。

理由は簡単で、ロイ・ポーターの The Greatest Benefit to Mankind の欠点、特に20世紀における記述の欠点を補ってくれるからである。言うまでもないことだが、ポーターの書物は、医学史の通史としては抜群に傑出していて、これをしのぐ書物が近い将来に現れることはないだろうし、この本を手元においていつも参照していない医学史の研究者はいないだろう。しかし、20世紀の医学のテクニカルな部分についての記述を、あと少し情熱をこめて書くべきだったと思う。<情熱>というのは妙な言葉だが、たとえば、川喜田の書物が、19世紀の医学の理論的な内容について語るときには、そこにあるのは<情熱>としか呼ぶことができない何かである。ポーターの記述は、テクニカルな内容を押さえたうえで、その臨床・文化・社会における意味を論じる記述に重心がかかるというスタイルになっている。テクニカルな部分の記述は、間違っていないのだろうが、時々それが軽すぎると感じることがあり、彼の記述の<情熱>は、文化・社会について論じる部分にある。私はもちろんその立場に共鳴するが、しかし、情熱をこめて短いけれども的確に語られたテクニカルな部分についての記述がほしいことも多い。

シンガー/アンダーウッドは、20世紀について、ポーターのこの欠陥を補ってくれることは確かである。そのテクニカルな記述は<情熱>とともに語られ、ポーターの本が持っていない適切さを持っている。現代の医学史の歴史記述からみて不満な点は多くあるが、医学史の研究者は医学のテクニカルな問題について必要な知識を持たなければならないという事実は変わらない。