京都の流行医

徳川時代の京都で成功した蘭方医、新宮涼庭の伝記を読む。文献は、山本四郎『新宮涼庭伝』(京都:ミネルヴァ書房、1968) 

新宮(1787-1854) 丹後の由良で生まれ、江戸で2年医学を学んだが、21歳のときに『西説内科撰要』を読んでオランダ医学にめざめ、1810年、24歳のときに長崎に遊学し、長崎で8年にわたって吉雄永保らに師事し、出島のオランダ人から蘭方を学んだ。 1818年に長崎を去り、故郷で結婚したのちに京都に移って開業。京都には既に優れた蘭学者もいたが、オランダ人直伝の新宮は成功した。医者として成功した新宮は、1839年に東山に順正書院を建てて学問所として八学科を設けて組織的・系統的な医学教育をほどこし、医学教育の一大勢力となり、医学界を越えて京都の文人らとも交わった。医学だけでなく経世家でもあり、南部藩、弘前藩に多額の融資をし、藩の財政の建て直しを進言した。

大名に金を貸すくらいだから、新宮の医者としての繁盛ぶりは大変なものだった。宅診は一日に数十百人(これは、百数十人、ということだろう)、午後に往診に出ると50箇所を回った。食事をとりに家に帰る時間が惜しく、四条小橋の屋台で田楽を食したという。これだけ忙しくしたから、自身、収入の点で自分におよぶものはまれであると豪語していた。豪商の鴻池家からの謝礼だけで生活費をまかなうに足り、それ以外に年収は2500両あったという。

昔のお金を現代の価値に直すというのは、本当はやってはいけないのだけれども(笑)、一両を10万円から20万円とすると、2億5千万円から5億円ということになる。・・・これは、すごい(笑)